皆春荘は、第23代内閣総理大臣の清浦奎吾(肥後出身)によって明治40年(1907年)に土地が購入され、清浦の別邸として建てられたものです。その後、大正3年(1914年)に南に隣接する古稀庵と総称される山縣有朋の別邸の別庵として編入されました。山縣の小田原別邸は、古稀庵のほか、皆春荘、暁亭により構成されていましたが、当時の場所に残る建物は皆春荘が唯一となっており、板橋地区の歴史的風致を構成する優れた意匠の数寄屋建築とされることから、平成28年(2016年)3月に本市の歴史的風致形成建造物に指定されました。なお、ほかの別邸は解体、市外へ移築されています。
主屋は、座敷棟、玄関、台所棟、離れ棟、納戸棟から成り、面皮付部材、絞り丸太、曲線を用いた垂壁等の数寄屋風建築の特徴を随所に見ることができます。
また、庭園はほかの邸宅と同様に山縣が自ら作庭を指揮したと伝えられる自然を重視したものとなっています。かつては、各部屋から相模湾や箱根山を借景とした眺望を楽しめました。さらに、庭園内に流水を設けるために水源として山縣水道を開き、庭園の北東より南西にかけてせせらぎを造っており、現在も形を残しています。
皆春荘の年表
和暦 | 西暦 | 皆春荘の歴史 | 備考 |
明治40年 | 1907 | 1月14日:皆春荘がある土地(小田原市板橋852-1番地)を益田孝が植木直蔵より購入
12月28日:益田孝から清浦奎吾に所有が移り、清浦奎吾が別邸を構える |
・山縣により古稀庵営造がはじまる
・山縣により新々亭(小石川水道町)を造営 ・山縣が公爵に陞爵 |
明治41年 | 1908 | - | ・伊藤博文暗殺され、山縣は枢密院議長となる(以降死去までの14年間在任) |
明治42年 | 1909 | - | ・古稀庵第一期が完成 |
大正2年 | 1913 | 清浦奎吾が皆春荘を山縣有朋に譲る | ・古稀庵第二期が完成 |
大正3年 | 1914 | 10月23日:清浦奎吾より吉田貞子に土地の名義変更 | - |
大正5年 | 1916 | - | ・古稀庵第三期が完成 |
大正6年 | 1917 | - | ・山縣が貞子を後添えとして迎える
・新椿山荘(麹町五番町)を造営 |
大正7年 | 1918 | - | ・椿山荘を藤田平太郎男爵に売却 |
大正11年 | 1922 | - | ・山縣が2月に古稀庵にて死去 |
大正12年 | 1923 | 9月1日:関東大震災により小田原が被災するが倒壊を免れる | - |
大正13年 | 1924 | - | ・古稀庵の洋館(伊藤忠太設計)は、養嗣子山縣伊三郎により栃木県矢板市の山縣農場に移築 |
昭和2年 | 1927 | - | ・古稀庵の所有権が山縣伊三郎より熊本徳次郎に移る |
昭和22年 | 1947 | - | ・古稀庵の所有権が熊本徳次郎から武田要輔に移る |
昭和27年 | 1952 | 敷地を一部分筆 | - |
昭和28年 | 1953 | - | ・東側の梅林に長谷川如是閑の別邸「八旬荘」が竣工する |
昭和38年 | 1963 | - | ・古稀庵の所有権が武田要輔から東洋興業株式会社に移る |
昭和39年 | 1964 | 吉田貞子夫人死去 | - |
昭和42年 | 1967 | - | ・古稀庵の所有権が東洋興業株式会社から株式会社修善寺ニュータウンに移る |
昭和45年 | 1970 | - | ・古稀庵の所有権が株式会社修善寺ニュータウンから松本祐商事株式会社に移る |
昭和55年 | 1980 | - | ・4月に古稀庵の所有権が松本祐商事株式会社から大成建設株式会社に移る
・9月に古稀庵の所有権が大成建設株式会社から千代田火災会場保険株式会社に移る |